2026.09.22
第13回
エミール・ノルデの花
石田 圭子 (神戸大学 大学院国際文化学研究科 教授)

エミール・ノルデ《ケシの花とアイリス》1925年以前 撮影:石田圭子
花が好きで、よく花の写真を撮る。でも自分なりにうまく撮れたと思う写真でも、目の前にある本物の花とのあまりの違いに驚くことがよくあり、この違いは一体なんなのだろうと素朴に思う。
画家が何度も花を描くのも、おそらくそんな驚きからなのだろう。彼らは自分の描いた絵と目の前の花の違いを何とか埋めて、花それ自体を捉えたいと願う。
では、いま私の前にある、現実の花の本質とは何か。それはおそらく、生命ある花の存在そのものであるだろう。花の生命は儚く、一瞬一瞬移ろっていく。写真はその移ろいの一瞬を切り取る。それによって、花は永続、とまでは言えないにしても、写真の中に長い命を得ることになるのだ。しかし、実際にはそこで花の生命はすでに失われている。ゆえに、カメラのレンズは対象に死を与えるものでもある。
絵画とは、その一瞬を、花の生命そのもの、すなわち無数の、移ろいゆく瞬間の連続とともに捉えようとする矛盾する行為なのかもしれない。そうした矛盾的行為だからこそ、画家は繰り返し、飽きることなく花を描き続けるのだろう。もちろん絵画もまた写真と同様に、花を表象に変える。ゆえに、そこには死が紛れ込む。しかし、花を愛し、その存在に魅了される画家が花を描くとき、そこには花そのものがたしかに存在している。そして、その絵を見る者は、現実の花を見ているときの経験それ自体を思い出すのだ。
エミール・ノルデの花の絵を見ながら、そんなことを考えた。
